時代を駆け抜けた往年のマシン
KZ1000 SUPERBIKE
ヤマハの500で世界GPにフル参戦する前年まで、エディ・ローソンはUSカワサキのエースだった。駆るバイクは空冷四発の雄、KZ1000。
アメリカンホンダのフレディ・スペンサーやヨシムラのウェス・クーリーらを向こうに回し、AMA最高峰のタイトルを手中にする。
NSR Final
The Final——、2001年は2ストロークの500㏄だけで争われる最後の世界GPだった。
その'01年にホンダが投入したNSR500は、絶対馬力を追及したかつてのそれとは打って変わって、コントロールしやすいもの。そのマシンを託されたのはバレンティーノ・ロッシだった。
Marlboro YZR[Part3]
衝撃の'94日本GPから3カ月後。阿部典史はマールボロカラーのレーザースーツをまとい、YZR500に跨っていた。ところが、天才とまで謳われた彼であってもNSR500からの乗り換えは容易でなかった。新たな開発課題が突き付けられたヤマハの技術陣。その奮闘を追う。
'98-'01 NSR250
エンジンはクランクを1軸から2軸に変更。車体ではピボットレスのフレームに、ラジエーターはサイドに配置するなど、それまで以上に意欲的な'98NSR250だったが……。
紆余曲折がありながらもアプリリア、ヤマハに勝負を挑んだホンダとライダーたちの姿とは—— 。
KR250/350
タンデムツインと呼ばれる特異な気筒配置だ
ったKR250のデビューは1975年のデイトナ。
しかし結果は全滅。それから2年。'77年よりカワサキは世界GPへの本格参戦を開始する。
果たして'78年、KR250/350はコーク・バリントンの手によりダブルタイトルを獲得する。
RS750D
当初、量産のCX500を改造したマシンで挑んだアメリカンホンダだったが、かのフレディ・スペンサーをもってしても王者ハーレーダビッドソンの牙城は切り崩せない。そこで開発されたのがホンダ初のワークスダートトラッカーである空冷VツインのRS750Dだった。
RVF Legend[Part1]
「無敵艦隊」とまでいわれたホンダの耐久レーサーも、'80年代に入るとカワサキやスズキの台頭により、かつての輝きを放てなくなっていた。空冷並列4気筒に代わる新しいホンダのアイデンティティとは—— 。技術陣が出した答えは新設計の水冷V型4気筒だった。
LUCKY STRIKE SUZUKI RGV-√ 250
激戦の250㏄クラスにスズキも挑む。時は1990年。だが現実は厳しかった。若井伸之やジョン・コシンスキーらが善戦するもヤマハやホンダには一日の長がある。思い切ったスズキはVバンクを変更。果たして'95全日本、沼田憲保によって悲願のタイトルを手に入れた。
'93 TZ250M
車名「TZ250M」、開発コード「0WF3」。
1993年に世界GP を制した原田哲也のクルマは“TZ”という量産車名が付きながらも、“0W”のコードが示すとおりその実態はヤマハのファクトリーレーサーだった。少数精鋭のチームが成し遂げた'93年の奇跡。その足跡を辿る。
KAWASAKI “Z”RACER[Part2]
サーキットにライムグリーンが帰ってきた——。
1987年の全日本第5戦・菅生。ZXR-7と名付けられたそのファクトリーレーサーは、バフ掛けされた極太のアルミツインスパーフレームにナナハン専用設計となった量産GPX750Rの水冷DOHC16バルブのエンジンを積んだ。
Marlboro YZR[Part2]
堅実なレース展開を見せるようになってきた
ケビン・シュワンツに加え、ホンダNSR500はついに位相同爆エンジンを搭載。迎え撃つウェイン・レイニーとヤマハは、さらに車体開発を推し進めるが……。混迷の度合いを深めていった「マールボロレッドの王者」を追う。
AHM CB750F
AHM=アメリカンホンダモーターの最優先事項は量産車販売に直結するAMAスーパーバイクを制すること。なかでも開幕戦デイトナは何としても勝ちたいレースだった。ベース車を日本で作り、アメリカでレーシングマシンへと仕上げる—— 。
CB最強列伝、ここに完結。